半田一雄先生のこと

2020年8月4日、本会相談役の半田一雄先生が逝去されました。102歳でした。

半田先生は姫路市のご出身。昭和16年(1941年)広島高等師範を卒業してすぐに愛知県成章中学校に赴任されました。間もなく軍隊に入り、終戦の年昭和20年(1945年)10月に成章中学校に復職。しかし、占領軍による軍人教員追放令の対象となり、昭和23年(1948年)3月に退職されます。その後は関西に戻り、請われて大倉建設の社長を務めたりされましたが、晩年になっても、成章中学校で過ごされた日々を懐かしんでおられたそうです。

剣道錬士(6段)でもあった先生は、退職後、兵庫県の川西市立中学校の外部指導員を22年務められました。ご高齢になっても、毎日300回竹刀を振っておられたとのことです。(平成7年10月兵庫県知事より「こうのとり賞」受賞)

半田一雄先生
半田一雄先生

平成20年(2008年)に成章野球部が甲子園に出場した際には、関西成章会主催の歓迎会で御年90歳ながら大きく力強い声で選手たちに檄を飛ばされました。その翌日の試合で成章は念願の甲子園初勝利を挙げたのです。

また、平成23年(2011年)と平成26年(2014年)には、関西成章会総会で特別講話をされました。先生は、年齢を感じさせない大きな声で、しかも原稿なしで約1時間の講話をされ、出席者に大きな感銘を与えられました。

半田一雄先生

昨年は、101歳にしてNHKの介護百人一首に応募され、見事入選されました。 百一歳 口で物言い 耳に聞く あり難きかな 介護されつつ この句は今年8月25日にNHK Eテレで紹介されました。

当会では、昭和35年ごろからほぼ60年余りにわたり相談役として当会の象徴的存在でもあられた先生のご逝去を悼み、会長はじめ有志4人で9月7日に半田先生宅を弔問しました。

偉大でお世話になった半田先生に改めて敬意と感謝を表し、心よりご冥福をお祈りしたいと存じます。

合掌

平成27年4月6日 成章中学27B回のクラス会が開催されました。

クラス会の場所は、田原の大谷屋。97歳の恩師半田一雄先生(関西成章会相談役)のご臨席の下、87歳になった教え子たち15名が集合。田原と豊橋の在住者各5名に加え、日立市、浜松市、刈谷市から各1名。関西からも鳥田卓氏と大久保敏氏が参加されました。

会の初めに各人が3分間スピーチを行いましたが、これが簡にして要を得たものばかり。最後に話された半田先生をして冒頭に「正にこれ出藍の誉れ高し」と言わしめたものであったそうです。
酒量は推定銚子100本を超えた模様で、その痛飲・健啖ぶりも店の人を驚かせたようです。

半田先生、教え子の皆様共々、これからもますます矍鑠(かくしゃく)としてのご活躍をお祈り申し上げます。


成章中学27B回のクラス会

昨年の関西成章会総会の様子が、12月1日付の東愛知新聞で紹介されました

関西成章会記事20141201


糟谷寛文先生の講話(抄)

(1)山本昌彦先生のこと

糟谷 寛文先生 私の恩師山本昌彦先生が6月に亡くなりました。通夜・葬儀には関西成章会からもご参列くださり、ありがとうございました。
山本先生は2年前、平成23年の8月に体調不良を感じられ、精密検査の結果白血病とわかりました。先生はそれをひた隠しにしておられ、私もずっと知りませんでした。
 私の前後の学年で山本先生と旅行をしておりましたが、昨年11月に先生をお誘いに行った時に、「俺に万一のことがあったら、お前が弔辞を読め」と言われました。私は冗談だと思って帰りました。
 その後いろいろなうわさが耳に入って、今年の2月にお見舞いに行ったところ、「他から耳に入る前に、お前には俺の口から直接病名を言いたい。俺は白血病で、もう治らない」と言われました。
 4月16日、誕生日の翌日に入院され、6月25日に亡くなられました。私は父が死んでもあれほどは泣きませんでしたが、遺体にすがって泣きました。私の恩人でありました。

 山本昌彦先生は、成章野球部にとって忘れてはならない方であると思います。今日は、山本先生のすごさを少しお話ししようと思います。
 先生のすごさの1つは、愛知県大会で優勝をかけた中京とのゲームでのことです。それまで山本先生は中京と決勝試合を2回して、いずれも負けていました。
 私はキャッチャーをしていましたが、それまで自分で考えてサインを出したことは一度もありませんでした。山本先生が1球1球すべてサインを出されました。私がサインを出すのを許されたのは3年生の春で、それも、「ランナーが2塁に行くまではお前が考えてサインを出せ。2塁に行ったら俺がサインを出す。打たれても俺の責任だ」と言われていました。また、「俺の考えていることがお前にわかるようになったら、ゲームは勝てるぞ」と常に言われました。
 その中京との試合で、成章はヒット1本で1点取りました。1対0のままずっと行きました。中京が1アウトサードの時に、「スクイズが来るな」と感じ、「多分山本先生は外せというサインを出すな」と思ってベンチを見ますと、山本先生はやはり「外せ」のサインを出されました。外して、ランナーはサードでアウトになりました。7回に1アウトサードがもう一度ありました。ここも「スクイズが来るな」と感じてベンチを見ますと、やはり「外せ」のサインで、外してランナーアウト。1対0で勝ちました。まさに高校野球の手本のようなゲームだったと思います。

 もう1つは東海大会でのことです。前日に山本先生が言われました。「明日のゲームは、トップバッターの藤江がフォアボールで出る。2番の高橋は右バッターだが左バッターボックスに立て。1球目、高橋は何もするな。バントの構えもするな。藤江は盗塁をしろ。セーフになる。セーフになったら高橋は右バッターボックスに変われ。セーフティーバントをやれ。セーフになって1-3塁になる。3番の山本は打て。ヒットで1点取る。なお1-3塁になる。奇襲をかけてダブルスチールをやる。もう1点取る。2点取ったら、4番、5番、6番とたたみかけて点を取る。」翌日ゲームが始まると、まさに先生が言われた通りになり、1~3番で2点取りました。4番、5番、6番は三振でその回は終わりましたが、作戦がピタッとはまったことは強烈でした。私が監督になってから山本先生は、「俺はあれを10年秘めていた。10年考えてきて、あのゲームで初めて使って、ピタッとはまって勝てると思った」と言われました。 山本 昌彦先生

 この2試合が山本昌彦のゲームの最たるものだと今でも信じています。私は長く監督をしましたが、あのようなゲームはできません。それほどすごい先生でした。

 山本先生が我々に遺したことの1つは、「努力のないところに勝利の女神はほほ笑まない」ということです。これが一番多く言われたことです。
 私が監督になってからよく言われたのは、次のようなことです。
 「勝利は選手の手柄だぞ。敗戦は監督の責任だ。」
 「練習に練習を重ねて鍛えたことをゲームに使え。練習で鍛えていないことを試合で選手に望むではないぞ。」
 「あの白球1つを通して我われは高校生の人格を形成するんだ。糟谷、俺とお前がやるのは学生野球だぞ。学生野球というのは、まずは授業がある。授業があって、その後で野球があるのだ。」
 「勝ちにこだわれ。いくら良い練習をやり、いくら良い能書きを垂れても生徒には浸透しない。勝って、成功体験をさせなければ絶対ダメだ。負けた後でいくら説教しても生徒の耳には入らない。勝った後で、いいところを言いながら、悪いところを指摘しろ。」
 「『蟻の一穴』ということをよく肝に銘じておけ。どんなに強固な堤防でも、蟻の穴から水が漏れ始めたら、一夜で堤防は崩れるから、些細な隙も見せるじゃないぞ。ましてゲームにおいては大事なことだ。」
 他にも、「勝って兜の緒を締めよ」とか、「『実るほど首を垂れる稲穂かな』という言葉を忘れるな。常に謙虚であれ」ということも言われました。まだまだたくさんあり、山本先生の教えがいかに多かったかということを今になって本当に感じています。今、小川のピッチングを見ていると、「山本先生から受け継いだことを、私はすべては伝えられなかったけれども、あの子は実戦の中で活かしてくれているのではないか」と思います。

 今私は愛知県高校野球連盟の監事という、理事長の相談役のような形で残っていますが、私の同世代の監督たちが、「山本先生の野球を知りたい」と未だに言います。「お前は山本先生の近くで30年近く一緒にいて、あの人の野球の細かいところまで見てきているんだから、こんなに幸せなことはないぞ」とよく言われます。私が思っている以上に、世間から見た山本昌彦監督というのは絶大な監督だったんだなあ、と思うわけです。ぜひ、ここにお見えの皆さまだけでも、山本昌彦という名前をずっと覚えておいていただいて、語り継いでいただきたいと思うわけであります。

 山本先生は生前、同級生の阪本さんがお見えだもんですから、関西によく足を運ばれました。前に甲子園に出たときのチームが1年生の秋に山本先生が関西遠征をして以来、ずっと関西遠征をして皆さんに声援をいただいて、野球部は頑張っております。これからもよろしくお願いしたいと同時に、山本先生がお世話になったことを、改めましてこの場で感謝申し上げたいと思います。ありがとうございました。

(2)小川泰弘投手のこと

 ペナントレースが終わった後に小川から電話が来ました。「お陰さまで最多勝になりました。自分でも驚いています」と言いました。「実は10月19日に関西で成章会があって、お世話になった方々にお前の話をしに行くんだよ」と言いましたら、「ちょっとメッセージを届けます」と言って、それが届きましたので、ちょっとご覧ください。

【小川投手からのビデオメッセージ】
 皆さん、こんにちは。東京ヤクルトスワローズの小川泰弘です。関西成章会の皆さまには高校時代からたくさんの応援をいただき、本当に感謝しております。皆様の応援のお陰で、この度リーグ最多勝、そして最高勝率という賞をいただくことができ、とてもうれしく思います。1年間プロで戦ってみて、楽しいこと、苦しいこと、いろいろ経験させていただきました。来年はより一層厳しい戦いになると思いますが、必ずチームの優勝に貢献するという決意で、また頑張って参りますので、これからも篤いご声援をよろしくお願いします。

 非常に短いものでしたが、彼の性格を表しているのではないかと思います。面白みのない男であります。

 小川を少年野球から3年間鍛えたのが、太田という子で、高29回であります。成章でキャッチャーをやっていました。当時山本先生も私も厳しくて、生徒は息も抜けないという状況の中で、本当に厳しい練習をやったなあと思う子ですけれども、彼が3年間、高校生が見ていてもびっくりするような厳しさで小川をしごいたようであります。
 中学へ進みましたら、そこで監督をしていたのが長神塁で、また私の成章の教え子が3年間彼を見ました。県大会、東海大会などに行って実績を残し、東三河では小川はかなり名が知られておりました。
 進学にあたっては、いろいろな私学からも誘われていたようですが、お父さまが「練習試合なども常に見てやりたいので、地元の成章高校でお世話になりたい」ということで成章へ来ることになりました。

 小川の球を受けるキャッチャーとしてふさわしいのがほしいなと思っていたところ、田原中学に、中学生と思えない、実に生意気で、一人社会人が混じって野球をやっているのではないかと思われるような選手がいまして、小川を抑えれるやつは東三河でこいつしかいないなと思いました。それがキャプテンをやった丸山です。丸山は成章希望ではなかったんですけれども、成章の卒業生である校長先生から話をしていただいて成章へ来ました。甲子園へ行ったチームで私の一番の大ヒットは、丸山をキャッチャーに連れてきたことかなあと、今思うわけです。
 丸山は、インコースに構えて小川が打たれると、私に聞こえるように、「ヤス、俺が構えたところじゃないじゃないか。俺の構えたのはもっと中だ」とか平気で言うような男でした。小川を頭からググッと抑えれるようなのは丸山一人だったかなあと思うわけです。
 甲子園に行ったときに丸山はいろんな所へ挨拶に行きました。白井文吾中日オーナー、知事や教育長の所へ行きました。そこで挨拶をするときの態度は、部長をやっていた大林が、「丸山っていったい高校生ですか、あれは。落ち着いてしゃべれるあの度胸はどこから来てるんですかねえ」と言っていました。だから丸山―小川というのが、やっぱりよかったのかなあというように思うわけです。
 小川が2年生の春に東海大会に行きました。当時のエースで大西という左ピッチャーで1試合を勝ちました。2試合目、大西が足の小指を骨折して投げられないので、小川に投げさせました。前半は良かったんですが、ランナー1人ためて、インコースにサインを出していたのを、小川が首を振ってアウトコースに逃げたら、レフトにホームランを打たれたんです。で負けました。ゲームが終わってから、当時キャプテンをやっていたキャッチャーの坂本に叱りました。「小川が首を振ったからといって、強気なお前が外へ逃げるんじゃない。外は打たれるんだ。中は打ちにくいんだ。」それを丸山と小川が聞いていて、あのインコースピッチングに変わっていったと思っています。

糟谷 寛文先生 私が小川に言ったのは、これはピッチャーにはみんな言うわけですが、「わからないことを怖がって逃げるということほどバカなことはない」ということです。「ど真ん中に投げたからといって空振りするかもわからない。バットを振って芯に当たったからといって野手の正面でアウトになるかもわからない。何が起こるかわからないんだから、キャッチャーと2人で頭を使って決めたボールは信じ切って投げろ。ど真ん中でもいいから投げろ。自分の信じたボールを投げ切る、それしかないんだぞ、ピッチャーは」と。

 小川が活躍するようになってから、新聞記者が来て言います。「先生、小川君にどういう指導をされたんですか」と。「俺は30年監督やっているが、ピッチャーにはみんな同じことを言う。ただそれを実践できるかどうかは、その子の資質による。育った環境や性格といった資質と相まって、たまたま言ったことが実践できるから、あの子はああいう投球ができるんじゃないか」と言います。なかなか実践できないんです。

 彼はインコースに徹底して投げます。よくデッドボールも当てました。インコースはあの子の生命線ですから、指導も叱りもしませんでしたが、大事なところでたまたま当てたときに、「ここで当ててはいかんな」と言いましたら、「あれは当たらないボールです。僕程度の球が当たるのはバッターが下手なんです」とはっきり言いました。

 1年生の5月の連休明けに、「次の練習試合に小川、お前に投げさせたい」と言いました。すると小川は、「ちょっと投げ込みをして肘が張っていますので、投げるのを控えさせてください」と言いました。1年生はだれでも、「お前、投げろ」と言えば「はい」としか言いません。自分の体調不良を訴えて、投げるのを控えさせてくださいと言ったのは小川が初めてでした。その時に私は「オッ、こいつはちょっと違うなあ」と思いました。

 今日ここに見えている井圡宇喜朗さんは、ご存じのように大投手ですが、井圡さんが時々来ると私はピッチャーを見てもらっていました。井圡さんに「小川を教えてやって」と言いましたら、井圡さんはボールを持って一生懸命教えてくれました。他のピッチャーはみんなかしこまって聞いているのですが、小川は井圡さんの言うようにボールを持って真似していました。井圡さんは、「あんな生意気な奴は初めてだ。俺はあいつが気に入らん」と言いました。後で小川に「井圡さんがお前の態度に腹を立てとるぞ。ちゃんと礼を尽くさにゃだめだぞ」と言いましたら、「先生、お詫びに行くなら行きますので一緒に来てください」と言うので、大林部長と行かせて非礼を詫びさせました。1年生の時からそういうことが言えるのは、やはり資質かなあと思うわけです。

 小川くらいの球を投げるピッチャーは、歴代の野球部にたくさんいます。井圡さんなどは、私がキャッチャーをしていて唯一「怖い」と思ったピッチャーです。小川の球はそれほど速くはありません。では、なぜ打たれないのか。
 じゃんけんで絶対負けない方法、それは後出しなんです。キャプテンの中にも微妙に後出しのうまいのがいて、じゃんけんで先行か後攻かを決めるのに、後攻を取ってこいと言うと必ず後攻を取ってきます。先ほど言った坂本や丸山も、たいてい後攻を取ってきました。この子は非の打ちどころのないまじめな子だな、と思うような子は、たいてい負けてくるんです。正直に出すからです。
 ピッチャーもそれなんです。バッターのタイミングをちょっとずらすんです。小川は脚を高く上げますよね。それが「じゃんけん」なんです。その後が小川は長いんです。なかなか球が出てこない。高く上げた脚に隠されて、どこから球が出てくるかわからない。小川投手
 中日球場に小川の試合を見に行きましたが、今度監督になるあの谷繁がまったくタイミングが合いませんでした。小川がグッと脚を上げると谷繁が始動し始めるんですが、なかなか球がこないものですから、30センチも離れた空振りをするんです。2試合見に行きましたが、2試合とも同じことの繰り返しでした。
 後出しじゃんけんができるピッチャーはなかなかいません。小川は投げに行きながらグーっと見てるんです。あの長さが小川のすごさかなと思います。あれは教えて教えられるものじゃないと思います。 小川は脚が180度開きます。ヘソが着きます。あの柔らかさと強靭な脚の太さ。上背がないのが却ってバランスが崩れなくてよいのかな、と思います。

 1年目が終わりますと、スカウトは活躍した選手を徹底して研究し、丸裸にします。だから2年目が小川の勝負の年かな、と言っています。小川のことですので、それ以上にまた努力をしてくれるのではないかなと思います。

 小川が成章野球部の卒業生であってくれてよかったなあと思うことがあります。広島で1勝を挙げた後、名古屋ドームに家内と娘を連れて見に行きました。ヤクルトの攻撃が終わると小川が小走りにプレートまで行きます。他の選手はだれもまだ来ていません。小川はボールをもらって待っています。ずっとそれの繰り返しでした。それを見たときに「ああ、いいな」と思いました。小さい体で、こういう姿勢で野球をやってくれたら、野球少年たちに希望が与えられるなあと思いました。
 2度目にドームに行った時、小川はハーラーダービーのトップを走っていましたが、ヤクルトの攻撃が終わると、やはり走りました。しかし、ファールラインを越えて、プレートまで5歩くらい歩きました。ちょっとうぬぼれてきたかな、と思いました。後日NHKのアナウンサーから取材の電話が入った時に、「高校の監督が、プレートまでしっかり走って喜んでいた。ところが、ハーラーダービーのトップに立った後で見に行ったら5メーター歩いた。ちょっと気に入らないと怒っていたと小川に伝えてくれ」と言いました。バレンティンが新記録を出した時に、知り合いのスポーツライターが電話をくれたので、「小川は走っているか」と尋ねました。「ああ、走っていますよ。歩いてはいませんよ」と言いました。「それはよかった」と私は言いました。そういう姿勢を貫いてほしいと思っています。

 今度侍ジャパンの打撃コーチになる稲葉がヤクルトにいたとき、次男を連れて見に行きました。稲葉はライトを守っていましたが、1回から9回まで、ベンチから定位置まで全力で走っていました。私は「すごいなあ。稲葉ってこういう選手なんだ」と思いました。次男が途中で「お父さん、稲葉ってすごいね。全力で走ってるね」と言いました。あ、見るところを見てるなと嬉しく思いました。あの辛口の野村監督が、将来の指導者として名前を挙げたのが、稲葉と宮本です。これまでオリンピック、WBCのメンバーにずっと入っているのは稲葉だけなんです。やはりプロの指導者になる人たちは稲葉の姿勢を認めているんだなと思います。すごい選手ではないと思いましたが、いまだに活躍して2,000本安打まで到達したあの姿勢ですね。
 それから、サードに、あの宮本、プロ野球の宝と言われるような選手がいたということ。この2人を見習って、小川にはあの姿勢を貫いてほしいと思います。たくさんのプロ野球選手がいる中で、田原という小さな町の成章という高校で育ってきた小川という選手はすごいなあと日本全国の皆さんに知ってもらえるような、そういう活躍をしてもらいたいと切に願っています。

 最多勝は嬉しいし、新人王もとってもらいたいんですが、ベンチ前からチームの先頭を切って走っていく小川の姿を見たときに「あっ、こういう教え子に恵まれてよかったなあ」と思うわけです。常に努力をすること、亡き恩師の山本昌彦が「努力するところに勝利の女神は微笑むぞ」と言った言葉がまさに今小川で具現化されているんだなあと思いながら応援をしているところであります。

 皆さんに甲子園からずっと声援をいただいて、小川がここまで成長することができました。彼は「感謝」ということを決して忘れる子ではありませんので、ぜひ今まで同様に彼に声援を送ってやってほしいと思います。
 つたない話でしたが、ご清聴いただき、ありがとうございました。本当にお世話になりました。

《平成25年10月19日 関西成章会総会にて》

山本 昌彦先生(元成章野球部監督)がご逝去

元成章野球部監督 山本昌彦先生 さる6月25日、元成章野球部監督 山本昌彦先生(高6回)が白血病でお亡くなりになられました。先生は、母校に赴任された66年から78年まで野球部監督を務められ、72年にはセンバツ初出場を果たされたほか、糟谷前監督をはじめとする多くの人材を育てられました。母校勤務は30年に及び、教頭で96年退職。そのほか第8代野球部OB会長、県高野連理事等としても活躍されました。
 当会の阪本会長とは、お互い母校野球部の第1期黄金時代を支えたチームメイトとして肝胆相照らす間柄でもあり、当会総会には、04年以降ほぼ毎年来賓としてご出席頂いたほか、06年(平成18年)には、ゲスト講話で「成章野球100年の足跡」と題し、豊富な資料をもとに感銘深いご講演を頂きました。本当にありがとうございました。
 心からのご冥福をお祈り申し上げます。
  (なお、お通夜、告別式には、阪本会長が出席されました。)

糟谷監督・感謝の会

阪本会長挨拶 5月13日、今春定年退職された糟谷寛文前監督に対する感謝の会が、母校野球部OB会有志により、関係者約350名の参加を得て盛大に開催されました(於:ホテル日航豊橋)。
 当会からは、阪本会長のほか役員2名(中村幹事長、小林幹事)、野球部OB3名(42回平江、47回亀山、51回藤井の各氏)が参加。阪本会長が心のこもった締めの挨拶をされ、自ら作成された平成20年センバツ出場時のスクラップブックを贈呈されました。
 会にはシンガー・ソングライターの西浦達雄氏も駆けつけて、歌と演奏で花を添えられました。なお、糟谷先生は、再任用により引き続き商業科で教鞭をとられるとともに、野球部の面倒も見ていただけるそうです。

西浦氏の演奏

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